英国の政治制度を「選挙による独裁 (elective dictatorship)」と評したのはヘイルシャム卿。英国は上院・貴族院に優越する下院・庶民院の議員が単純小選挙区で選ばれる議院内閣制。多くの場合、保守・労働二大政党のどちらかが庶民院で単独過半数を確保し、実質的に行政府が立法府を主導して立法権も握る。結果として、与党内に造反者が出ないかぎり、野党がいくら結束しても政府には勝てない。政府にとって厄介なのは野党ではなくて、与党の議員であり、再選を危うくする世論である。そのため、政府にとってはどれだけ与党内の規律を保てるかが鍵となる。党議拘束をかけて、所属議員が方針通りに投票するように促す院内幹事長・院内幹事・院内幹事補たち (whips) が存在する。この whip の語源は鞭ではなく、狩猟の時に猟犬が集団から離れた場合に連れ戻す役割をしていた whipper-in らしい。
1996年に第2次メージャー政権が少数与党政権になって以来、1997・2001・2005年の各総選挙で労働党が単独過半数を確保し、2010年総選挙後に保守・自由民主連立政権が発足し、2015年総選挙で保守党単独過半数となった。2017年の総選挙では保守党が北アイルランドのDUP(民主統一党または民主連合党)の閣外協力を得て少数政権を運営。2019年の総選挙では保守党が再び単独過半数に。基本的に保守党対労働党という構図なのだが、英国は必ずしも二大政党制とは呼べない。2015年に大敗して党勢を未だ回復できてないが、それ以前の総選挙ではかなりの議席を有していた自由民主党、そしてスコットランドの選挙区ではここ数回の総選挙で圧倒的な強さを見せているスコットランド国民党など、保守・労働以外の政党も勢力を保っている。
2016年の国民投票以後、EU離脱で揉めに揉めたのは、2019年総選挙まで、保守党も労働党も離脱するべきか否か、もし離脱するならどのような形で離脱すべきか、党内が割れていたため。政党だけではなく内閣も一枚岩ではなかった。通常なら強いはずの首相も求心力が弱く、親EU・反EU両派の造反者に翻弄される形に。2017年総選挙後は保守党が過半数割れしたことで、更に首相(当時はメイ氏)の求心力が低下した。庶民院は全てに反対したが、どの案にも賛成多数はなかった。
2019年総選挙で多くの親EU派や穏健派議員が引退し、強硬派が主流になった保守党が大勝利して、1月31日英国時間午後11時をもって英国はEUから離脱する。その離脱とEUとの合意案を定める英国の国内法である欧州連合(離脱合意)法案 European Union (Withdrawal Agreement) Bill が可決され国王裁可された。これまでの議会の紛糾と打って変わって。そしてジョンソン首相が離脱合意書に署名。庶民院で安定多数を擁するジョンソン氏は、離脱後どのような方針を採ろうと、今後短期間は安泰だろうし、政策を進めることができるだろう。しかしこれはロンドン・ウェストミンスターにある英国議会の話。英国には他にスコットランド・北アイルランド・ウェールズにそれぞれ議会が存在する。これらの議会では、保守党以外の政党が与党で、欧州連合(離脱合意)法案の同意を拒否した。
上:英国議会;下:スコットランド議会
ウェストミンスターの英国議会からスコットランド・北アイルランド・ウェールズの各議会に委譲された権限について英国議会が立法するとき、各議会の同意を得る慣習 Sewel convention がある。EU離脱は委譲された権限に関わる事に影響する。ただ、あくまでもこの同意は慣習であり、英国議会は英国の何事についても立法できる権限を有している。たとえスコットランド・北アイルランド・ウェールズ議会が反対しようと。そしてたとえ通常英国政府・議会は自制しこの権限を行使しなくとも。英国憲法上英国政府・議会がこの権限を行使することは全く問題なく、同意を得る慣習は司法判断不適合だが、もし委譲された権限について決めることができないのであれば、何のための分権なのか、政治的正統性という意味で、今後ジョンソン首相にとって厄介なことになりかねない。特に親EUで独立を標榜するスコットランド国民党が政権を運営しているスコットランド、再び議会が始動した北アイルランドがジョンソン首相の頭痛の種になるだろうか。
少し話が逸れるが⋯⋯上記で委譲か移譲か、どちらの表現がより合っているか、非常に悩んだ。委譲は一般的には上から下に権限を「委ねる」という意味があり、移譲は対等な立場な者が権限を「移す」という意味。行政関連では移譲が一般的なので、移譲とすべきかと思ったし、他の記事では「移譲」を使ったこともあるが、英国議会とスコットランド・北アイルランド・ウェールズ各議会の力関係を見ると英国議会が強いうえ、今回は英国政府が慣習を破ることが明らかなので「委譲」とした。現実的政治的に無理だとしても、法的に英国議会はスコットランド議会とウェールズ議会を廃止することができる。ただし北アイルランド議会はベルファスト合意もあるので、英国の国内法だけで廃止するのは無理。ちなみに英語でスコットランド・北アイルランド・ウェールズ議会への権限委譲・移譲は devolution と呼ばれている。
ジョンソン首相は何を目指しているのか、まだはっきりしない。EU離脱は長い過程の一つに過ぎない。しかし、彼はそろそろ立場を明確にしないといけないだろう。特に離脱後現状が続き今後の関係を協議する今年の12月31日までの移行期間の延長は行わないと表明しているため。英国が離脱後に中長期的にEUとどのような関係を築こうとも、英国の基本的な政治体制は変わらざるを得ないかもしれない。もしEU離脱後に英国の政治が迷走し、経済的社会的混乱や停滞が続けば、スコットランド独立、そして北アイルランドで住民投票が行われてその結果としてアイルランド共和国に帰属する可能性すらある。憲法の成典化や各議会の権限と関係の明確化や選挙制度改革は必要だという気運が英国内で高まってもおかしくない。