没後に出版された立川談志のエッセイ集のタイトルにもなっている「努力とは馬鹿に恵えた夢である」は刺激的な表現。ひょっとしたら努力は真面目な人間に与えられる麻薬なのではないかと思いはじめている。
努力は必ず報われるという考えの根本に因果応報・善因善果・自業自得の思想があるのだろう。心情として分かるが、信条にはできない。宗教や哲学に詳しくないが、努力という因の対価として果を期待するのは正しいものなのか。もし努力が必ず報われる取引であれば、成功しないのは努力が足りないためだと簡単に説明できるし、どんな困難も努力で乗り越えられるはず。結論⋯⋯もっと奮励努力すべし。向上心があって真面目な人間ほど、自身の失敗や足りない部分について自責の念に駆られ、更に努力を重ねる傾向があるのではないだろうか。何かを成し遂げるための手段ではなく、努力が目的になってしまうと、努力することで達成感を得て快感を覚えてしまうかもしれない。身近にいくら努力しても頑張っても報われていない人はいないだろうか。そして努力もせず頑張りもせずに強運で成功している人はいないだろうか。
決して無意味だから努力をするなと主張しているわけではない。勉強にしろスポーツにしろ芸術にしろ、何かを成功に導いたり達成するには強固な意志や信念が不可欠で、練習や場数を踏むことは大事。心技体の均衡が望ましいし、紙一重の差の場合は、努力や心や精神力が決定打になることもある。嫌いなのは所謂「根性論」だ。技術不足や計画の不備を精神論で補填し、努力を強いて心理的身体的能力の限度を超えようとする考えや風潮。また失敗や敗退の理由が技術的なところにあったのに、心が足りなかったと精神論に帰結させる分析や解説。心技体の技と体の足りない部分を心で穴埋めしようとするのは無謀であり無駄。技術不足でできないのに、力技をもってあるいは膨大な時間を費やして体にも心にも過度の負担をかけるのは非効率で逆効果。疲弊するし時には大怪我をする。必要なのは技の習得であり、根性ではない。遺伝や環境で個々に能力の限度というものがある。いくら伸ばそうとしてももう伸びないところが必ずある。それを乗り越えようと無駄な努力をすることは無意味であり不幸。
ただ何が無駄な努力なのか、実際に努力してみないと分からない部分がある。傍目から無謀に映っても、自発的に本人が挑戦しつづけたいのであれば、助言はしても、無理でなければその意思は尊重されるべきだろうか。でも無理なものは無理。できないことはできない。超えられない壁は超えられない壁。引導を渡す時は躊躇してはいけないし、はっきりと伝えないといけない。教育者の立場にある友人は、このような状況を子供にも親にも分かりやすく説明するのが難しいと言っていた。いくら努力してもできないことを否定して諦めさせるのではなく、努力と才能でできることに目を向けさせることを心がけているそう。
努力する人間が叶わぬ夢を追いつづける馬鹿なら、他人に努力を強いるのは大馬鹿だろうか。また他人が努力する姿をふんぞり返って冷笑しているのは、何となく格好悪いというか無粋。