東京五輪が始まった。もう後戻りできないが、新型コロナウイルス感染症のデルタ株が世界各地で蔓延していて、日本でも感染が拡大している中、数カ月の延期が順当だったのではないか。その数カ月の間にワクチン接種率を上げて、完全に安全な大会とはならなくても、安心できる環境になったのでは。ワクチンが有効性でありつづけ接種率が高まれば、国内外からの有観客での開催もあったのではなかろうか。逆に悪いシナリオとして、新たな変種株が出現してワクチンが有効でなくなる可能性がある。その場合は中止しかない。
無観客開催、そして外部と選手村を徹底的に分離して、選手たちが新型コロナウイルス感染症に罹って棄権せざるをえない状況が発生しないことを切に願う。現在の感染状況からすると、選手村から外に感染が拡がる可能性よりも、外部から選手村に持ち込まれる可能性の方が高いのではないか。
現在の事態は日本政府の優柔不断と弱腰が招いたこと。国民の安全安心を保証できず、国民の信頼も得られず、参加する選手たちにも最高の晴れ舞台を用意できず、無能と罵られても仕方がないような無為無策ぶり。延期・中止の場合IOCに請求されるかもしれない賠償金のことが一部取り沙汰されていたが、もし実際にそのような可能性があっても支払う覚悟で交渉に臨むべきだった。
延期・中止は選手たちにとっては酷だというのは分かっている。4年は長い期間。スポーツ人生で能力のピークを何年も維持できるとは限らない。前回の夏季五輪からすでに5年。もし更に伸びたり中止になったら、五輪に参加する機会が永遠に失われてしまう選手も多くいる。それでもこの時期に開催強行は、本当に選手たちのためだろうか。選手たちは、観客がいなくても歓声がなくとも、自己にある力を全て出し切るだろう。中には観客の存在をプレッシャーに感じる選手もいるかもしれない。だが観衆の大声援を背に受けて奮い立つ選手もいる。観客としてはその時その場を分かち合い一体感を得られるのは素晴らしい。五輪でなくても他のスポーツを観戦したりコンサートに行ったことがあれば経験したことがあるだろう。
スポーツに全く興味がない人もいれば、他のスポーツに興味はあっても五輪には興味がない人もいる。正反対に五輪を欠かさずに観る人もいる。スポーツ全般に興味はなくても五輪だけは観る人もいる。いろいろな意見や立場があり、五輪を観る観ないを他人に押し付けるのは大人気ない。嫌いなら観ない。好きなら観る。それだけのこと。私は五輪というイベントは基本的に好きだ。記憶に残っているのは1998年長野冬季五輪と2012年ロンドン夏季五輪の2大会。長野五輪ではカーリングが行われた軽井沢で分村として使われたホテルのフロントで通訳というか補佐としてボランティアをしていた。ロンドン五輪では一観客としていくつもの競技(柔道・体操・レスリング・バレーボール・サッカー・ホッケー・卓球)を観戦した。両方とも貴重で楽しい経験だった。記憶が薄れてしまって忘れたところもあるが、まだ鮮明に覚えていることもある。懐かしい大切な思い出になっている。そんな国際交流やボランティアや現場での観戦という機会が、東京五輪を楽しみにしていた多くの人々から奪われたのが本当に残念だ。その強い失望が日本政府・IOC・大会組織委員会への怒りに繋がっている。今回の五輪において、私は選手たちの活躍を観たいし願うし応援して勝利を祝福したいが、これまでの経緯で日本政府・IOC・大会組織委員会の行動や判断には虫唾が走るようになってしまった。
【写真】長野五輪ボランティア参加証
【写真】ロンドン五輪柔道女子57㎏・男子73㎏級を観戦した際に撮影した。。試合が終わってメダル授与式の準備中。
口の悪い友人が言っていたことだが、五輪とは「普段なら誰も観ない競技を抱き合わせ、4年に1度という希少性を持たせ、毎日多くの種目を行いメダルを次々と授与して、畳み掛けて盛り上げてお祭り騒ぎ効果で、商業的に成立させている」もの。さすがに「誰も観ない」は言い過ぎだが、確かにそうだと思う。でも悪いことではない。五輪があるからこそスポンサーや国家からの助成金などが存在して、数多くのスポーツと選手を支えている。五輪の一競技だから興味を持つ人の数のほうが、その競技単独の世界大会に関心を寄せる人数より圧倒的に大きいだろう。陸上や水泳という選手人口が多く、観客も少なからずいる競技でも当てはまるのだから、極論になるかもしれないがマイナーなスポーツは五輪でしか脚光を浴びない。五輪がなくても商業的に成り立つスポーツは、参加選手に制限があったり、主力選手が参加しない。男子サッカー・野球・男子バスケットボールなどが思い浮かぶ。
五輪の理念やら精神やら価値というのは、独善偽善の類だといつも感じている。崇高なものと持ち上げれば持ち上げるほど現実と乖離する。IOC委員の汚職、利権体質、権力闘争、個々や国家ぐるみでのドーピング、国威発揚や国家体制の正当化という政治利用⋯⋯。どれもこれも掲げている理想とは正反対。でも大多数の選手は相手への敬意を持ちながら公平に真剣勝負に挑んでいる。五輪というパッケージでないと売れないスポーツもある。これまで知らなかった国や人や競技を知るきっかけになる。交流やボランティア活動として参画することもできる。多くの観客そして世界中のテレビ視聴者が楽しみにしている。莫大な経費がかかるが経済波及効果もある。清濁併せ呑むというのか、独善偽善があっても、選手たちが活躍する場ができるて、多くの人々が様々な形で参加できるのであれば、五輪に意義があると思っている。ただ今回は濁の部分が黒いような気がしてならない。開会式でのトーマス・バッハ会長のスピーチは、私の耳には冗長で自己満足と欺瞞に満ちていて、何とも言えぬ嫌悪感を抱いた。
演出としての開会式は序盤とドローンの球体は個人的に気に入ったし、聖火台への点火を大坂なおみ選手に託したのは素晴らしい人選だったと思うが、他の部分はもっと省略すべきだったのではないか。物語としての一貫性や何を伝えたかったのかが明確ではなかったように見えた。ただこれは私が演出に関しては元々特に必要なものでもないという意見だからかもしれないし、開会式に至るまでのゴタゴタに嫌気が差していたためだろう。観客もなく、選手も密を避けていたのも映像としては迫力というか見どころに欠けた。最後の点は新型コロナウイルス感染症という状況下避けられなかったので、演出を批判するのは筋違いだろう。
全てが杞憂に終わり、新型コロナウイルス感染症という闇の中に一条の光になったと末永く記憶に残る大会になり、こんな間違った馬鹿馬鹿しい記事を書いたと嗤われるのが、一番良いのだが。