ジャニー喜多川による未成年者への性的虐待問題が燻りつづけているが、ニュース記事を読むかぎり未だに日本のテレビ局は及び腰になっている。個人的に、ジャニー喜多川とジャニーズ事務所が文藝春秋社を提訴した名誉毀損裁判の2003年7月の東京高裁の判決で「セクハラ」が認定され、ジャニーズ側の上告が棄却された2004年2月以降、ジャニー喜多川による行為を知りうる立場にあったのに、取引を継続したメディアや広告代理店やジャニーズ事務所のタレントを宣伝に起用した企業は、ジャニー喜多川の未成年者性的虐待を容認していたと思っている。他に取引している会社のトップがこのような不祥事を起こした場合、まるで何もなかったかのように取引を継続するだろうか。そしてメディアは他の企業で似たようなことがあったならば、報道していたのではないか。もし2004年の時点で大々的に報道されていたならば、被害者は少なくなっていたのではないか。
ここ最近の一連の報道で強い違和感を覚えたのが、ジャニーズ事務所所属のタレントが現在自他ともに報道番組と位置づけられている番組のニュースキャスターを務めていること。海外在住なので知らなかった。数年前の吉本興業所属芸人の闇営業問題の頃、吉本興業所属芸人が司会の番組で吉本興業所属芸人のスタジオ・ゲストに吉本興業所属芸人の闇営業について訊くという、何やら紛らわしいことがあったらしいが、それは娯楽番組での話。放送法の分類と合致しているか知らないが、ワイドショーは時事問題や多岐にわたる情報を取り扱う娯楽番組で、英語でいう infotainment にあたり、公共の電波を充てがわれて国民の「知る権利」を補充する立場で、公平性公共性が強く求められる報道番組とは違う。
ニュースキャスターは伝える立場にあり、報道番組ひいて報道部門そしてテレビ局のいわば体現者にあたり、公平性を保つために自身がニュースになることは避けなければならないし、利益相反が存在するあるいは疑われる立場にあってはいけない。そのためニュースキャスターはテレビ局の社員か、そうでない場合はテレビ局の社員に準ずる専任という形でなければならないはず。もし外部のタレントを起用した場合、所属する事務所やスポンサーとテレビ局の板挟みになる状況が容易に想像できる。所属する事務所の不利益になることに言及できるかできないか自体がニュースになってしまう。これが現在発生している事象だ。同様にもしニュースキャスターがCMに出演している会社が良くも悪しくもニュースになった場合、公平性は保たれるのか。
外部の人間をニュースキャスターに登用することによって、編集における自主自律が脅かされるのではないか。あるいはそのように外部から見えてしまうことはないのか。ニュースキャスターが所属する事務所やスポンサーが直接報道の編集に口出すことはないだろうし、テレビ局側もそのような露骨な介入は突っぱねるだろうが、問題は番組制作内での私情あるいはテレビ局内の他の部署からの圧力などで自主検閲つまりは忖度が生じうるか否か。実際にあるかどうかではなく、疑義を持たれるだけで信用が損なわれる。世の中では事件や事象が多く起こり、報道番組は全てを網羅するわけにはいかず、どのニュースを取り上げるかそして取り上げないかを選ぶ必要がある。テレビ局に編集の自由があり、報道する自由もあれば報道しない自由もある。しかし報道しない判断の基準が公益ではなく、他者への忖度つまりは私益だったら問題だし、そのような印象を与える余地があってはならない。
2004年にこのニュースを報道しなかったのはなぜなのか。ジャニーズ事務所とそのトップの社会的影響力を鑑みれば、視聴者が知るべきニュースではなかったのか。報道機関は個人が持てない組織力と取材力と財力を有している。視聴者は自分たちの「知る権利」をテレビ局に託しているとも言える。例えば政治であれば、テレビは視聴者すなわち有権者が次の選挙での投票先を選ぶ判断材料として、知るべきことを不偏不党にニュースとして知らしてくれるだろうと。同様に視聴者はニュース番組を観ることによって、社会問題や事件について、そして消費者や取引先として企業を選ぶ十分な情報を得られるべきだ。
専任で全く他者と利害関係がなく客観的に利益相反が存在しなかったり、論客や批評家などコメンテーターの立場としてニュース番組の編集制作と距離がある立場ならまだしも、構造的に利益相反が必然と生じるタレントをキャスターとしてニュース番組の「顔」にするテレビ局の意向は理解しがたい。