E. B. White と Katharine S. White が1941年に書いたのが
Humor can be dissected, as a frog can, but the thing dies in the process and the innards are discouraging to any but the purely scientific mind.
という一文で
お笑いはカエル同様に解剖できるが、解剖中に死んでしまい、内蔵は物好きな研究者でなければ目を背けるだろう。
にでもなるだろうか。乱暴な結論かもれないが、お笑いとは楽しむものであって、分析するものではない。
人や言語や文化によっていわゆる「笑いのツボ」は違うが、笑うことはおそらく人類共通。人間はなぜ笑うのか、大きなテーマで学術的に研究されているが、メカニズムが解明されたわけでも笑いの方程式が見つかったわけでもない。同じネタでも、場合によってはウケて、場合によってはウケない。見る側として最初は笑っていたネタなのに、何回か見たら急につまらなくなることもあれば、最初は全く面白くなくて笑えなかったネタなのに、回数を重ねると笑えるようになってくることもある。今後AIが発達しても、いつでも全ての人間を笑わせることができるジョークなりギャグなり漫才なりコメディーができるだろうか。できたら恐ろしい。笑えるか笑えないかは思考や知性などのフィルターを通さずに、人に直接「刺さる」ものだと思っている。
お笑いが一部で「スポーツ化」と「芸術化」しているような気がする。スポーツ化というのは、お笑いにルールを定めて一見客観性がありそうな点数をつけて勝負という枠組みを作ったことを指し、芸術化というのはお笑いの評価を大衆に委ねるのではなく、閉鎖的に審査員に任せて、分かる人にしか分からないということ。個人ではなく業界構造の話。
スポーツというのはルールが決まっている。知らない人や興味がない人にしてみれば不可解で不条理なルールがたくさんあり、説明も「そういうルールなんだ」に帰結する。ただ門外漢に意味不明でもルール自体は大抵明確であり、評価対象は客観的に記録可能で、結果は勝ち負けがはっきりし、順位も明らかで、速さ・高さ・長さ・得点数などは数字として表せる。表現や美しさが評価の一部になるフィギュア・スケートやスキー・ジャンプなどのスポーツ種目もあるが、成功失敗の基準が明確な技術や飛距離という客観的な要素が強い。全てではないがお笑いのコンテストで、数値化するのが難しい技術と審査員の個々の感性によるのだが、何やら正確で分かりやすい点数あるいは順位が付けられる。無理ではないか。総評ではなく一部や特定の人物の評価や点数や順位が独り歩きして注目されるのは本末転倒のようにも思える。漫才らしくない漫才ははたして漫才なのかというような議論が起こりうるのは、漫才の定義ががっちりとしていないから。しかしルールを細かく設定すれば、そのうちにもっと細かく設定する必要性が出てくるし、はてには面白さや技術や内容ではなく定義やルールを巡る不毛な論争になってしまう。多彩な表現方法があるべきなのに、決まった型に落とし込む「どこかで見たような⋯⋯」陳腐化形骸化で劣化版が大量発生する危険性もある。
芸人が客ではなく同業者を笑わせたい同業者に評価されたいというのは、芸術家としては正しいかもしれないがテレビに出る商業的大衆芸能の観点からすればおかしい話。お笑いのプロとはその場その時の客を笑わせる人。それがテレビの視聴者だろうと会場の客だろうと、幼稚園児だろうと高齢者だろうと。客を笑わせてナンボの世界のはずなのに、お笑いが分かる客・分からない客に分けて、ウケないのは何も分からない客のせいにするのは滑稽。自分たちの芸能を社会的に高く位置づけ、ある種の教養や知性や感性を客に求め、それらの要件を満たさなければ排除する自惚れた思考であり、大衆芸能の対極にあるものになってしまう。何も分からない「一般人」や「素人」なんぞに評価を任せられないから、分かっている同業者、それも業界内で立場の強い者に評価させる。それが評価する側にも評価される側にも権威を与え、自称「お笑いが分かる」人たちが尻馬に乗る。お笑いは自他ともに社会の一部や少数の人にのみ理解される高尚な芸術なのか、それとも大衆芸能として幅広く多くの人を魅了して商業的に成立するものなのか。
お笑いが芸術化されると、芸人と自称お笑いが分かる人が内輪で盛り上がり、分からない人を小馬鹿にする。分からないけれど分かりたい人のために、権威を持つ分かる人が点数や順位を付けてやる。そうすると分かりたい人は分かった気分になり、分かっている人の権威を振りかざして「正しい」お笑いを押し付け、分かっていない「お笑い偏差値が低い」人を見下す。権威と排除。陳腐と形骸。娯楽と媒体が多様化している中、次第に世相と温度差が生じて「分からない」や「つまらない」や「笑えない」と大衆から飽きられ見放され、廃れてしまうのではないか。
怒っていたり悲しんでいたりするよりも、笑っている人生の方が楽しい。多種多様の独創的な表現で人を笑わせる才能が次々と発掘されて認知されるのは、世の中にとっても良いし、お笑いは大衆芸能であるべきだと思う。どうすればそのような機会を増やすことができるのか、メディアや芸能界で芸人がいろいろと実験できる場所が増えれば良いのだが。