パリ五輪開会式

もともとひねくれた性格だが、歳を重ねてよりシニカルになっている部分があると自覚している。その反面、穏やかそして素直になっている部分もあるような。極端化しているのだろうか。

一昨日の夜、2024年パリ五輪の開会式をテレビで観ていて、面白く斬新な演出だと思った。パリという街そしてセーヌ川を使って選手団が水上行進したのは良かった。ただ天気が⋯⋯。天気はどうにもならないが、選手も観衆も警備員も関係者も、あの場にいた全員が土砂降りの中で風邪を引くのではないかと勝手な心配をしてしまった。もし晴れていて、開始とともに天が茜色に染まり、空が川面に映り、川沿いの建物が柔らかい色に包まれる中、大小の舟が進んでいると日が暮れて、パリの街の灯が燦爛と輝きエッフェル塔が発する光芒の演出があったら、よりきれいなことだっただろう。映像として良かったと思うが、果たしてセーヌ川沿いで観ていた場合はどうだったのか。雨が降っていなくても、開会式全体を観ることはできなかったはず。これまで開会式というのは大抵陸上競技用の主要会場で行われ、観衆は全てを観ることができたが、セーヌ川沿いの席だったら選手団が通り過ぎるところは観えても、それ以外はスクリーンで追うしかなかっただろう。

良いとは思ったが、感動はしなかった。これはオリンピックが過度に商業化・肥大化して、どうしても虫唾が走るというか、心の中に黒い嫌悪感の塊のようなものが重くのしかかるため。歳とともにシニカルになっている部分。サッカーのFIFAにも似たような感覚を覚える。もちろん選手は応援するし、ボランティアという形で参加したり、観客として違う国の人々と交流したり、素晴らしいところはたくさんある。良い部分が明るければ明るいほど、暗いところがより暗く見える。今回の開催国はフランスなのであてはまらないが、中国やロシアのように五輪が体内的に時の政権の正当化や国威発揚つまりは体外的な示威行為として利用されると暗澹たる気分になる。個人的に大きなスポーツ大会の開催国は、基本的な人権や政治的自由が保障されている国に限られるべきだと思う。

最近の五輪で重要視されているのが遺産。カタカナでレガシー。五輪を開催する都市そして国は大金を投じることになる。政権の正当化や国威発揚の場合は、市民国民の感情を無視して金に糸目を付けなくても済むが、民主主義国家で市民国民が開催に納得するには、出費に見合うだけのリターンが求められる。有形と無形の遺産がある。有形は簡単にいえば箱物やインフラなど。新しい競技場の他には、地域の再開発だったり、交通インフラの整備など、五輪を機に市民生活がより充実したものになる。しかし作れば良いというわけでもない。仮設ではなく新設された競技場が五輪開催後に使われずに廃れてしまうケースが過去にはあり、それでは負の遺産になってしまう。無形は大雑把に言うと社会が五輪を通してより良くなること。これは例えば他国や他文化との交流。またスポーツをすることは個人の健康にも社会にとっても良いことだと思うので、五輪をきっかけにスポーツに興味を覚えて参加する人が増えれば喜ばしい。

今大会ではどんなドラマが生まれるだろうか。多くあるはずだが、私はほとんど観ないだろう。理由は英国の場合、地上波BBCが生中継で放映できる量が限られているため。自分の好きな競技を観るのであれば discovery+ に課金しなければならない。そのためBBCのテレビでは英国選手の活躍が見込める競技が中心になるし、次から次へと目まぐるしく変わるだろう。英国選手の活躍だったり金メダルが決まる瞬間を立て続けに観ることになる。実況や解説はうるさいし、私のような鈍い人間は疲れてしまうし、スポーツに限らず多くのことで結果に至る経過を知ることも重要だと常々感じている。

五輪の一瞬一瞬を一喜一憂しながら観戦する素直な心が欲しい。