NFTデジタル・アート

なぜだか知らぬが⋯⋯私は友人知人にネットに詳しい人間だと思われている。実際はそんなことはないのだが、いろいろと質問されることがある。ここ数カ月の間にNFTデジタル・アートとは何か、そしてなぜ価値があるのかと訊かれた。正直に「全く分からない」と答えた。私の知識はせいぜい新聞記事や大手の経営コンサルタント会社の資料を読んで得られた程度。注ぎ込む資金がないというのもあるが、投機性が高くよく分からないものは買わないという堅実というか保守的な考えから、今の所個人的に絶対に手を出さないし、他人にアドバイスできるわけがない。下記は専門家ではない人間がどのようにNFTデジタル・アートを理解しているのか、いや正確には理解していないのかをなぞるもの。私は法律や経済の専門家ではないので、調べれば調べるほど混乱して、言い訳がましいと言われればそれまでだが、いろいろと間違っているだろう。

NFTとは non-fungible token の頭文字で fungible ではない token ということ。日本語では「非代替性トークン」と一般的に訳されている。まず fungible にどのような意味があるかというと「代替可能」ということ。お金は fungible だ。もし1万円を借りたとしよう。借りた日本銀行券の記番号はME4060302N。借りた1万円を返す際にこのお札を返す必要はない。違う1万円札でも5千円札2枚でも千円札10枚でも1万円という額を返せば良いのだ。一方 non-fungible というのは逆に代替できないもの、つまり他のものとは取り替えられない固有の唯一無二のもの。不代替物。そして token は「証票」と日本語に訳されている。そのためNFTは上記のように「非代替性トークン」と訳されているし、別の言い方をすれば「不代替証票」になる。この証票(トークン)は distributed ledger technology という分散型台帳技術にブロックとして記帳される。NFTデジタル・アート取引における証票の主流は数字の羅列、つまり固有番号。取引や更新されるとブロックが増えて過去のブロックと鎖(チェーン)で繋がれたように記録される。ブロックチェーンの信用の源は、取引が過去に遡及して可視化されている透明性、改竄が事実上不可能であるための不変性、そして分散型台帳なので中央集権型であれば存在する単一障害点がないところだろう。また中央集権型ならば台帳を管理する者によって恣意に書き換えられたり、記入や転写時にミスが起こるかもしれないが、それらの可能性を排除している。よほどのことがなければ恒久的に記録に残る。

デジタル・アートは基本的に無体無形。もちろん印刷などで出力することもできるが、もともとの芸術作品は有形ではない。NFTデジタル・アートの場合、証票のJSONメタデータにデジタル・アートのデータの在り処がURI(統一資源識別子)で示される。証票に紐付けられているのはURIであって、実際のデジタル・アートのデータではない。もし証票とデジタル・アートのデータを一体として台帳に記帳するとデータ量が増えて莫大な取引手数料が発生するので、URIを介した方法が採られる。ゆえに資産価値があるのが芸術作品とその知的財産権だとすると、証票と資産はURIを介した間接的な関係になる。

この画像は2021年11月11日に撮影したヨーロッパコマドリのデジタル写真をコンピューターで油絵風に加工したもの。英国の広い地域で見るありふれた小鳥のありふれた写真を加工した、芸術性も希少性もないありふれた画像データ。数分で作成した。とても金銭的価値があるとは思えないが、もし私がこの画像をNFTデジタル・アートとして販売するとなれば、一体「何」を売っているのだろうか。そこが理解できていない。売買されているものの正体が分からない。例えばこの画像を100枚限定のポスターに印刷して通し番号を付けて販売するのとは違う。ポスターであれば手に取れる形で所有できるものを売っているが、無体物のデジタル・アートの場合は何だろうか。無形財産だろうか。しかし一般的に著作権など知的財産権はNFTデジタル・アート取引で証票購入者に譲渡や付与されない。作成者が知的財産権を引き続き保有する。そのため証票購入者は勝手に証票に紐付けられたデジタル・アートを複製して使用できない。これは限定数のポスターを買ったからと言って、ポスターの絵を勝手に複製して衣類に印刷して売ることができないのと同じ。証票に利用権を付与することはできるだろうし、もし独占的な利用権であればそれなりの価値があるかもしれない。しかしそのためにNFTを活用する必要性はない。知的財産の利用権について契約を結べば良いのだ。また証票に知的財産権が付随しても、権利者として無断使用などの侵害に対して必要とあらば法的手段をもって対応しなければならないことに変わりはない。NFTだとデジタル・アートのデータが即ち保護保全されるあるいは無断複製ができなくなるということはない。

100枚限定のポスターであれば、共同購入ではなくて個別に複数人が同じ42番のポスターという一点物を手元に所有することは無理だし、作成者は同じ有形物を複数人に売ることはできない。ポスターは色褪せたり劣化したり破れたり無くなったりするかもしれない。ではデジタル・アートの場合はどうだろう。デジタル・アートは劣化しないかもしれないが、1点のデジタル・アートに対して複数のNFTを売ることが可能で、1URIにつき1NFTで限定販売したとしても、同じ画像データを異なる複数のURIに掲載すれば、果たして法的に哲学的に同じデジタル・アートになるのだろうか、それとも外見上は全く同じでも別物なのだろうか。またURIが消滅したらどうなるだろうか。もし来年私がドメイン名の更新を怠ったらヨーロッパコマドリの画像のURIはエラーになってしまう。他にサーバーの設定で同じURIなのに閲覧者によっては画像データを見せたり、403・451・418などのHTTPレスポンス・ステータス・コードを送信してデータを見せないことができる。そして私が違う画像ファイルをURIに掲載したらどうなるだろうか。つまりURIは変わらないが、そこにあるのは小鳥の画像ではなくて差し替えられた他の画像。証票のメタデータに「ヨーロッパコマドリの画像」という記述があったとしても、他のヨーロッパコマドリの画像だとしたらどうだろう。もし小鳥の画像の知的財産権を証票購入者ではない第三者に譲渡して、その第三者が自分のサイトに載せて私がこのサイトから削除した場合はどうだろう。このサイトの場合は私が作成者でありドメイン管理者だが、この2者が別々だとドメイン管理者は技術的に恣意に作成者の意向に関係なくURIにあるファイルの削除や変更が行える。作成者が画像ファイルをアップロードしたサーバーが消えたり、利用規約に違反したとみなされアカウントが無効になってサーバー上の全データが削除されたらどうなるだろうか。もし作成者が作品をアップロードした以降変更できない仕様だったら、そのURIにあるデータの支配者は作成者でも証票購入者でもなくドメイン管理者だ。起こりうる問題をあげればきりがないが、他にサーバーがハッキング被害やDDoS攻撃を受ける可能性がある。ポスターなら劣化はするかもしれないが、ある日突然絵が消えたり変わったりすることはない。

証票と直接紐付けられているのはデジタル・アートのデータではなくURIなので、そのURIが継続的に有効で、URIにある資源(デジタル・アートのデータ)が不変で常に表示され、同じURIに対して他の証票を発行しないあるいは発行上限を予め決め、同じデータを他のURIに掲載しない、という文言が契約にない場合、証票購入者は作成者やドメイン管理者に対してどのような権利を主張することができるのだろうか。くどいがこのような条件がある場合は、NFT発行で自動的に証票そのものに内在するのではなく、証票に付随するまたは別個の契約に基づいた権利主張だ。分散型台帳技術に記帳されていて、改竄が事実上不可能で恒久的に残り固有性のある記録は証票であって、デジタル・アートではない。取引されるのは証票であって、デジタル・アートではない。証票のメタデータに記録されているURIは残るかもしれないが、URIやそのURIにある資源は消えたり変わったりするし、同時にドメイン管理者でなければ証票購入者はURIの支配権を有さない。デジタル・アートは性質上完全なる複製が非常に簡単なため、唯一性は保てないし保証できない。また同じデジタル・アートを複数の箇所に置いたり置き場所を変えたりすることが可能で固定性がない。サーバーに置くこともできれば、記録媒体に保存することができ、それらは全て同じデータだ。そして証票単体によって知的財産権を証明したり主張することはできない。私にとって最大の不明点は、NFTは何の「証」になるのか、というところ。NFTデジタル・アートは不完全なトークン化。NFTはデジタル・アートを法的に具現していない。つまりNFTは、保有しているという事実によって権利を証明して市場で売買できるデジタル・アートの「証券」ではなく、この記事では便宜上「証票」と呼んているがメタデータにデジタル・アートの情報が記載された「単なる固有番号」に過ぎないように見える。証票を売買しているのは明らかだが、資産価値のない固有番号とメタデータ以外に、知的財産権が付随しない場合、売り手として何を売っているのか分からないし、買い手として何を買っているのか分からない。

もしNFTに記録されているURIとそのURIにあるデータが不変で恒久的に有効である場合、証票はURIとデータが「本物である」という証明書のような役割を果たせるだろうか。しかし悪意ある人間がニセモノの証明書(NFT)を作ることが可能。作成者になりすまして何ら権利のないデジタル・アートのNFTを発行する偽者の証明書、あるいは他人の著作物を複製したり翻案権や著作者人格権を侵害する作品を作成してNFTを発行する偽物の証明書。証票は改竄できないかもしれないが、元々がニセモノだったら改竄できないニセモノで話にならない。もしNFTを証明書として捉えるのであれば、その信頼性は例として権威ある美術品オークション・ハウスが仲介することによって担保されるだろうか。ブロックチェーンを利用したり推奨する人たちは、中央集権や権威を否定的に捉える傾向があるので、誰かの権威性に頼らなければならないのであれば皮肉な結果。そして証明書として意味があっても、証票に何の権利もなければ、どれほどの価値があるのかという疑問が残る。

最初に書いたように、調べれば調べるほど、考えれば考えるほど、NFTデジタル・アートのNFT自体のどこに資産価値があるのか分からなくなるし、なぜ高額で証票が取引されると思う人が存在するのか理解できない。人間の叡智と創造力によって無から価値あるものを生み出すのが芸術だろう。NFTデジタル・アートの場合、資産価値は芸術作品や知的財産権にあって証票そのものにはない。証票とデジタル・アートそのものと独占的利用権など知的財産権に関する表記が一体となって台帳に記帳されたり、NFTが法的にデジタル・アートのトークンとして証券のような性質を帯びない限り、NFTはせいぜい作成者が発行した証明書のようなものとしか思えない。それもURIを介在したもの。豚に真珠の価値が分からないのと同様に、私にNFTの価値というか証票売買の価値が分からない。でも多くの人々が価値があるものとして取引する市場が形成されているのであれば、それなりの価値があるのだろう。蒐集家というのはどのようなものにも存在するので、デジタル・アートと知的財産権でなくNFTそのもののコレクターがいるのかもしれない。でも現在NFTデジタル・アートに価値があるまたは投機でひと儲けできると思っている人たち全員が、NFTとは単なる番号に過ぎず資産としての価値がないという考えに至れば、この市場はあっさりと消滅するだろう。この市場が消えても証票は恒久的に残るし、市場やNFTと関係なくURI上のデジタル・アートは残ったり消えたりする。NFTや賭博師どもが夢の跡⋯⋯。

もし私がNFTデジタル・アートを買うとしたら、何らかの権利や物を対価とした取引や後に高く売るという投機対象ではなく、芸術家を応援したことを証明したい時だ。その点では英単語 token の一般的な意味に近い。例えば a token of appreciation であれば、感謝の気持ちを具現した小さいものや金銭的価値にすると感謝の念に釣り合わない安いものを意味する。純粋な応援か自己満足か自己顕示か、NFTを買えば芸術家を支援した者として名を竹帛ではなくブロックチェーンに垂ることができよう。