ラテン語に damnatio memoriae という表現がある。記憶からの抹消と表現できようか、書・詩・歌・絵・貨幣・碑・建物・像⋯⋯様々な形の記録から存在が消されること。人間最大の栄誉が「後世に名を残すこと」であれば、その可能性を奪うことであり、最大の不名誉と言えよう。その時の権力者や社会から見て反逆者や極悪人と断ぜられた者などを対象に、記録がよく破壊された。例えばソ連の時代、失脚したり粛清された政治家が過去の集合写真から上手な加工によって消された。
電子化とインターネットによって、記録がしやすくなり、データとして複製したり拡散するのが容易になり、分散されて保管されるようになった。作成と複製と保管と出力と拡散の時間的金銭的負担、そしてデータの消失リスクが劇的に下がり、検索エンジンによって昔のコンテンツが簡単に探せるようになった。記録を残すのが大変な時代から、記録を消すのが大変な時代に。将来の歴史家は史料の少なさを嘆くのではなく、史料の多さに悩むことだろう。
今ならメールに資料を文書として添付すれば良いが、メール・ボックスの容量が小さく通信速度が遅かったダイアル・アップ接続の時代、資料は印刷されて配付されていた。複製もコピー機に頼った。ビラを作ったら人目に付く場所に貼ったり、郵送したりしなければならかった。音声を記録するならテープ、映像だったらビデオテープで、複製にはダビングする必要があった。機械が必要だったし、何よりコピー用紙にしろテープにしろいちいち時間と手間と金がかかった。私は恐らくこのようなことをよく覚えている最後の世代に属する。現在は簡単に膨大な量のデータを、誰でもSNSやブログなどを通して、実質的に無料で直接不特定多数と共有できる。情報伝達と拡散という意味で、インターネットが活版印刷の発明以来の画期的な出来事と主張できようか。
流れて消えていくのが美学⋯⋯は言い過ぎかもしれないが、一過性で残らないことを前提とする媒体と、長く残る媒体があると捉えている。テレビやラジオは残らない。映画は残る。新聞や雑誌は残らない。本は残る。これは私だけの変な区別というか感覚かもしれない。差は毎日大量に生産そして消費されるかどうか。SNS投稿やブログは作られて読まれて消えて忘れられるものの最たる例ではないだろうか。編集や他人のチェックが入らない生の声。しかし実際はいずれも残る。現在放送されているテレビやラジオ番組は恐らく誰かが録画録音しているだろうし、電子版の新聞や雑誌も保存されているだろう。未来永劫残るという前提でSNSやブログに投稿する人は少ないが、一度ネットにアップロードすると、他人に複製されてしまい、自分で削除しても、インターネットのどこかに残っている可能性がある。もし残っていればいずれ検索エンジンにクロールされ、検索結果に反映されるようになる。そして恒久的に残り、他人の目に入る。
データではなく実物を探すのは面倒。上記の「残る媒体」である古い映画のDVDや絶版になった本を探すのに一苦労するが、レンタルできたり図書館で借りることができる。一方の「残らない媒体」はもっと大変。過去に遡れば遡るほど難しい。新聞なら縮刷版があるが、雑誌や他の刊行物だと過去の数号は保管されていても何年前何十年前になると⋯⋯。紙やテープやCDやDVDの物理的記憶媒体は、虫や鼠に食われたり壊れたり無くなったりする。しかしインターネットにある電子化されたデータは、現在のものであろうと過去のものだろうと、検索エンジンで発見できれば、簡単にアクセスできる。
社会的に許容される言動は時代とともに変わる。私が子供だった頃のテレビ番組の多くは、現在放送できないだろう。昔の映画や本に「不適切な表現がある」という但し書きが付くことがあるが、芸術または文学作品としてそのままの場合が多い。特に監督・著者が故人だと。もし今メディアやSNSで不適切な発言があれば、あっという間に拡散されて炎上して大問題になり、対応に追われて謝罪・訂正・撤回に至ることが多い。番組からの降板や事務所やスポンサーから契約解除を告げられることもある。メディアの場合は生放送でなければ編集があり、流すか流さないかの判断を局として行うので、個人の責任のみではない。しかし本人が直接書き込むSNSやブログにはそのような過程というかフィルターがなく、完全に個人の責任。
未熟な時に投稿したSNSやブログ記事を何年後かに掘り起こされるのは恥ずかしいかもしれないが、もし過去にその当時まだ容認されていたが今なら許されない発言をしていたらどうだろうか。一躍有名になると、過去のブログやSNS投稿が注目される。探すのは比較的簡単。匿名であっても特定されることがある。粗捜し大好き人間と薄っぺらい「調べてみました・まとめてみました」コタツ記事量産「ライター」が、肥溜めに吸い寄せられる蝿の大群のように集まる。
過去のSNS投稿はいつまで遡って問題視されるべきだろうか。投稿からどれだけ経てば時効扱いされるべきだろうか。
もう何年も前の問題発言が大炎上する状況を見て覚える違和感は、人間の性格や思考が不変であるかのような決めつけと、他人に常に完璧を求めるところにある。何かあれば嬉々と他人を批判して、罵詈雑言を浴びせる人たちのどれくらいが、本当に品行方正なのだろうか。
過去の投稿がその時点で違法だったり公序良俗に著しく反する場合に、投稿者を追及するのは分かるが、そうでなければ最も重要なのはその人の現在の考え。過去のことを責め立てる必要や理由があるのか甚だ疑問に思う。また大人の言論には責任が伴うが、未成年に関しては犯罪でなければ一切遡及すべきではない。時代や社会が変わるように人間も変わるというか内省もすれば成長もする。今なら問題になる過去の言動については、糾弾されるのではなく、説明の場が与えられるべき。過去の発言を反省して成長しているのであれば、それを認める余裕というか余地が社会にあって良い。
有名人の過去の言動に失望して、ファンであることや応援することをやめるのは分かる。そして度が過ぎているとは思うが「裏切られた!」と憤るのも理解できる。でもこれまで特に興味が無かった人たちが、一斉に叩きはじめるのはどうか。犯罪やよほど公序良俗に反しない場合、叩いて憂さ晴らしをしているのだろうか。
SNSやブログに簡単に自分の言葉で自分の思いを投稿でき、他人と繋がることができるのは素晴らしい。しかし人間誰でも怒りや悲しみや酔いに任せて、後に後悔するようなことを書き込んでしまう。それは後世に悪名を残す危険性が常にあるということ。そしていつ足を掬われるか分からないことを意味する。