ロシア語は20年以上前に大学で齧った程度。それも読解力のみのコースで、ロシア語の文法や語彙を学んで比較的簡単な露文英訳を行っていた。結構良い成績で単位が取れた。キリル文字は忘れていないが、語彙をもうほとんど覚えていない。そのためロシア文学を原語で読むことはもちろんできないし、ニュース記事を理解することもできない。ここ数年再び自習しようと思い立っては、三日坊主に終わっている。
覚えている数少ない露単語で個人的に興味深いのが мир だ。カタカナで表音すれば「ミール」で、3つの意味がある。まず「平和」という意味があり、レフ・トルストイの大作『戦争と平和』はロシア語で Война и мир だ。キリル文字に立体とイタリック体で大きな差がある字がいくつか存在し、一見すると мир と мир は違うが、同じく小文字の「ミール」である。次に「世界・全人類・宇宙」を意味する。そして第3に「農民共同体」を指す。
1917年の正書法改正以前の「平和」は миръ で「世界・全人類・宇宙」と「農民共同体」は міръ だった。同音異義で同音異字。そのため『戦争と平和』は Война и миръ だった。19世紀に出版された露英辞書 (www.
旧正書法で миръ / міръ と区別されていた「ミール」だが、本質的に「平和」・「世界・全人類・宇宙」・「農民共同体」を包括する一つの考えを表す一つの単語だったのではないか。少なくとも下記論文の注を読んでそう思った。
覚張シルビア 「Л. トルストイの『戦争と平和』における共鳴システム」 『ロシア語ロシア文学研究』 39(2007) DOI: doi.
123頁・注27に『戦争と平和』では「平和」の миръ の他に様々な意味を内包する міръ の使用例が見られ⋯⋯
一つの言葉が絶えず一つの意味にのみ対応するとは言い難い。二十世紀始めに,A.メイエは,古代教会スラヴ語の語源と辞書の研究において,平和という意味でのスラヴ語ミールと宇宙という意味でのミールとは,本質的に同義であるということに着目した。従って,現代の мир という一つの言葉のうちには, миръ と міръ という二つの意味が孕まれているといえる。例えば,ナターシャが口にする《миром》という言葉には,「皆で一緒に」と「敵意なしに」という二つの意味が含まれている。この二つの意味が結合したミールは,ロシアの農民共同体 мир-община を表しているのだ。
本来であれば一つの単語だったのに、旧正書法では無理して違う単語に分けられていたため、意味を重ねたり深みを持たせることができなかったが、正書法改正でようやく миръ も міръ も мир に収斂された。もちろん正反対の説を唱えることもできるだろう。意味が違い峻別されるべき単語が正書法改正で一つになったため、言葉としての定義が曖昧になった。
私は言語学者ではないので、どちらが正しいのか論ずることはできないが、根底で「平和」・「世界・全人類・宇宙」・「農民共同体」が繋がっていると思いたい。
ロシア軍の侵攻開始から1ヶ月以上が経ったウクライナでの戦争が速やかに終わり、ロシア軍がウクライナから退去して平和が訪れることを願っている。