ロシアの両唇と目の上のたんこぶ

ロシア軍のウクライナ侵攻が始まって1ヶ月半以上経った。戦争とは政治目的達成の手段。未だにプーチン大統領の目的即ち勝利条件は不明だが、少なくとも現時点で彼が戦争開始時点で描いていた目的が未達成なのは明らかで、戦況はロシア軍にとって不利。準備する時間があって軍事力の面では圧倒的な優位に立つはずのロシア軍だが、ウクライナの軍を無力化することも主要都市を占領することもできていない。これまでにロシア軍の将官が何名も戦死して、黒海艦隊の旗艦が沈んだ。もしウクライナ全土を掌握するのが目的だったのであれば、完全な失敗であり、今後も達成できないだろう。

中国の古典や史書に義兵・応兵・忿兵・貪兵・驕兵という区別がある。義兵は弱きを助け横暴を誅したり大義のある正義の戦い。応兵は敵に攻め込まれてやむを得ず応戦すること。忿兵は小事に怒り武力に訴えること。貪兵は他人の土地や財産を目的とした欲望の戦争。今回のプーチン大統領が始めた戦争は「驕兵」にあたるだろう。自分の国と軍の強さを誇って過信して他国を圧する戦争。例えば『文子』道徳に「恃其國家之大,矜其人民之眾,欲見賢於敵國者謂之驕。⋯⋯驕兵滅,此天道也」とあり、また『漢書』魏相丙吉伝に「恃國家之大,矜民人之眾,欲見威於敵者,謂之驕兵,兵驕者滅」とある。さらに『三国志』で沮授が主君の袁紹の曹操攻略計画に反対した際に「恃衆憑彊,謂之驕兵。兵義無敵,驕者先滅」と諌めたことが、魏書・袁紹伝の裴松之の注に『献帝伝』を引く形である。驕兵は敗れるでも死せるでもなく滅するもの。

プーチン大統領は目的を変更して、ウクライナ東部と南部を占領することを優先している模様だが、それで十分だろうか。得られるのは瓦礫と死体の山と焦土。それでロシア国民に向けて勝利を宣言できるだろうか。そしてプーチン大統領の立場は安泰だろうか。恒久的にウクライナの東部と南部の一部を占領することになっても、残りのウクライナは西側陣営に付くだろうし、欧米の対露制裁は継続されるだろう。もし占拠した場合、ウクライナ東部を併合するのか傀儡の独立国家を作るのか定かではないが、ウクライナのほとんどを勢力圏・影響圏から失うことを考えれば、いくら対内的に勝ったと主張しても、地政戦略的に明らかに負けである。肉を切ったが骨を断たれたようなもの。

ロシア人全員がそう思っているというわけではもちろんないし、歴史から変なところを読み取っているのかもしれないが、ロシアの安全保障に広さと寒さは欠かせない。ナポレオンにもヒトラーにも勝てたのも、物理的距離と天候が要因だった。敵の兵站が伸びて、ロシアという凍てつく大地を制圧できず、疲弊したところを大兵を以て損害を厭わずに叩き、敗走する敵に対して追撃の手を緩めない。ウクライナとの国境が敵対あるいは対立する勢力圏との境界になると、攻め込まれた場合、敵のモスクワまでの進撃の距離が縮む。ロシアは心理的に圧迫される。

唇亡びて歯寒しと言うが、ウクライナはロシアの下唇でありつづけることを拒んだ。このままロシアがウクライナを失いプーチン大統領が失脚すれば、ベラルーシのルカシェンコ大統領の立場も危うくなるだろう。これまでルカシェンコ大統領は独裁政治を弾圧で保ってきたが、プーチン大統領の後ろ盾なしに長くは続かないだろう。ルカシェンコ大統領後のベラルーシが、西側との関係を重視するのかそれとも親ロシア路線を継続するのか予測できないが、もしベラルーシがロシアの勢力圏・影響圏から離れて西側陣営に付けば、ロシアは上唇も失うようなもの。スモレンスクが境界線近くになる。すでにフィンランドとスウェーデンがNATO加盟を前提として検討しているので、ロシアにとって目の上にたんこぶができるのはほぼ確実。地政学上この戦争でロシアに勝算は見えない。

ウクライナでの戦争がどのような形で終結するのか、まだまだ分からないが、ロシアが国力を消耗することは明らか。国力の疲弊によって超大国の一角ではなく、米中印に次ぐ軍事大国という立場に。ロシアのプライドがそのような状況を許せるのか疑問。経済規模を中心にした考えではもう大国と呼べなくなるかもしれない。ソ連崩壊で冷戦が終結した後の数年は米国1強時代だったかもしれないが、基本的に第2次世界大戦後に構築された国際秩序が今まで続いてきた。それが中印の台頭とロシアの没落で今後大きく変わることになるだろうか。