ここ10年ほどで英国社会を最も震撼させた事件に数えられるのが、テレビ・タレントとして有名だったジミー・サヴィル (Jimmy Savile) の未成年者性的虐待の発覚。死後1年後の2012年にITVのドキュメンタリー番組をきっかけに、長期間にわたり数多くの被害者がいたことが判明した。英国の20世紀後半を代表するようなタレントで、奇抜な服装に派手なサングラスをかけて盛んに葉巻きたばこを吸っていたことを覚えている。彼が一番テレビに出ていて影響力があったのは、私が生まれる前あるいは記憶がある前の60・70・80年代だった。慈善事業にも熱心で首相だったマーガレット・サッチャーや現国王で当時のチャールズ皇太子とも交流があった。被害者になったのは、多くの場合、社会的弱者で慈善事業と関係するものもあった。
2017年に世界的ニュースになったのが、映画プロデューサーのハーヴィー・ワインスティーン (Harvey Weinstein) 服役囚の性暴力事件。芸能界というか映画界における歪な力関係が明るみに出て、多くの女性が被害を受けたことを公表して #MeToo 運動の契機となった。また2019年に拘置所で自殺したジェフリー・エプスティーン (Jeffrey Epstein) による未成年者性的虐待も記憶に新しい。完全な余談になるが Weinstein とEpstein の字訳は一般的な米国英語の発音に従った。
富や権力や業界構造や社会構造によって生じる圧倒的な差の力関係を悪用して己の性欲を満たす加害者がいて、かぼそくあがる被害者の声は行政にも警察にもメディアにも取り上げられずかき消されて社会的に黙殺されてきた。そして加害者を実質的に幇助するように沈黙し癒着し忖度する人や組織が存在する。これは条件が揃えばどこでも起こりうる現象だろう。
英国のテレビ視聴者の多くは、サヴィル・ワインスティーン・エプスティーンの各事件を覚えているはず。そのような背景で昨晩(2023年3月7日)英国の公共放送BBC2で放送されたのが Predator: The Secret Scandal of J-Pop というドキュメンタリー番組。ジャニー喜多川の未成年者への性的虐待を取り上げていた。最初にジャニー喜多川という謎多き人物とジャニーズ事務所という組織について簡単な説明があったあと、1999年10月から14週にわたってジャニー喜多川による性的虐待について報道した『週刊文春』のキャンペーンに携わった記者のインタビューがあった。相当な裏取りをしていて、後述する裁判で報道の大部分の真実性が認められたが、他のメディアによる後追い報道もなく、記事は実質上「つぶされた」のだ。記者の憤怒とやるせなさは「23年間、私はずっと絶望したままです」という発言に現れている。その後はジュニアとしてジャニーズ事務所に所属していた4人と心理カウンセラーのインタビューを軸に番組が構成されていた。またジャニー喜多川について街頭インタビューも行っていた。4人の元ジャニーズJr.で最初にインタビューされた「ハヤシ」氏は性的虐待の生々しい実態を告白し、いかに深い心の傷を負ったのかが伝わってきた。他の3人はジャニー喜多川が性的虐待を行っていたことを直接的あるいは暗に裏付けたが、自分たちがその虐待の対象者つまり性被害を受けた被害者という認識はなかったようだ。これはグルーミングにおいて決して珍しいことではない。ジャニー喜多川への感謝を口にしたり、性行為は自分が己の意思で選んだ正当な取引・対価というような考えを持っているようだった。デビューしたい売れたいという夢が叶うか叶わないかは、ジャニー喜多川の一存で決まるので、ジャニー喜多川はジャニーズJr.に対して絶大な権力を持っていて、対等に近い関係とはかけ離れていた。そしてその立場を悪用した。どこにおいても自分を性的虐待の被害者と認めるのはハードルが高い。どこまで日本の文化や土壌に固有性があるか私は疑問に思うが、このハードルは日本社会で非常に高いのかもしれない。そして芸能界は一般社会とは違い、このような起きてもおかしくない、というような容認論とまではいかなくても、違うルールが存在する、というような偏見が日本社会の一部にあるのではないか。至極当たり前のことだが、虐待は虐待で許されない行為だ。芸能界で起きようと一般社会で起きようと。
ジャニーズ事務所は取材に全く協力的ではなく、メディア(テレビ・新聞・雑誌)も前述の20年以上前にこの件を報道した気骨ある『週刊文春』の記者2人を除けば、梨の礫。ジャニー喜多川の話題はタブーで、メディアにはまるで沈黙の掟 (omertà) が存在するかのよう。沈黙の理由はドキュメンタリー番組でも言及があったが、ジャニーズ事務所とメディアの構造的癒着と忖度があるためだろう。事務所にとって都合の悪いことや批判的な内容を取り上げれば、所属タレントを出さない。ジャニーズ事務所に人気タレントが多く所属しているので、事務所が出さないと困り必然的に媒体側も忖度して自己検閲する。また番組ではバーターにも触れていた。人気があって媒体側が出てほしいと願う「売れている」タレントの出演の条件として、同事務所の他の「まだ売れていない」タレントを抱き合わせる。私のような外部の人間からすると、テレビの時間も紙面も限られているので、バーターは競合する他の芸能事務所を排除することによって露出というメディア市場において優位を得る目的で行われていて、媒体側もその公正な競争に反する行為に加担というか共謀している。そしてますます事務所への依存度が高まる。芸能人が「干される」という表現を見かけるが、考えるべきは「誰」が「干している」かではないだろうか。一旦有名人が交際したり結婚したり不倫したり離婚したりすれば、一片の公益性もないのに長々と嬉々と取り上げるのに、事件性と公益性がある件については見てみぬふりをする。もしこれから後追い報道がなく、メディアとしてこれまでの自社そして業界全体としての行動や判断や責任を省みることもなければ、ジャーナリズムの片鱗も気概もない単なるセンセーショナリズムとゴシップ媒体が社会の木鐸を名乗っているだけだ。
メディアも広告代理店もジャニーズ事務所を宣伝に利用する企業も、ジャニー喜多川の性的虐待を予見しえなかったわけでも知りえなかったわけでもない。ジャニー喜多川とジャニーズ事務所が文藝春秋社を提訴した名誉毀損裁判の2003年7月の東京高裁の判決にて
原告喜多川が(中略)セクハラ行為をしているとの記述については、いわゆる真実性の抗弁が認められ、かつ、公共の利害に関する事実に係るものである
と認定されている。噂話ではない。つまりメディアも広告代理店も所属タレントを宣伝に起用した企業も、ジャニーズ側の上告が棄却された2004年2月以降は、事務所のトップにある人間が未成年者への性的虐待をしているということが民事裁判で認定されたことを知りうる立場にあったのに、ジャニーズ事務所と取引を続けることを自発的意図的に選んだのだ。取引継続はジャニー喜多川の行為を容認していたとも言えよう。果たしてその判断は十分な調査に基づいたものだったのか、企業の統治やリスク管理や理念や社会的責任に沿うものだったのだろうか。
加害者が故人であるため、個人の責任を追及することはできないが、重要なのは真相究明と再発防止である。真相究明も好奇の眼差しを向けるのではなく、被害者の尊厳とプライバシーに十分に配慮したうえで心のケアを支援し、中立性と独立が担保された第三者によるものが望ましい。なぜ虐待は起きたのか。なぜ長く続いたのか。なぜ裁判で実態が明らかになったのにまるで影響がなかったかのように振る舞えたのか。なぜメディアも広告代理店もジャニーズ事務所に所属するタレントを宣伝に起用した企業もジャニー喜多川の行為を問題視しなかったのか。そして最重要課題としてどうすればこのようなことが再び起きにくくなり、もし起きたとしても被害者が助けを求めやすい環境を整えられるのか。一個人一組織の問題として捉えるのではなく、芸能界やメディアや広告代理業や社会の構造を問い直す機会になれば良いのだが、期待できるだろうか。それとも沈黙と癒着と忖度が続くだろうか。