読書日記 | 『織田信長合戦全録 : 桶狭間から本能寺まで』

2010年12月7日

谷口克広著 『織田信長合戦全録 : 桶狭間から本能寺まで』 中央公論新社 2002年

近くの図書館に行ったら目に留まった新書。織田信長という人物はやはり日本史重要で、歴史に「たら、れば」は禁物だが、本能寺の変で倒れず、あと数年元気に生きていたならば、天下統一を成し遂げていただろう。その織田信長はどのようにして戦争に勝ったのか、興味のあるところ。

尾張平定までは、織田家内の反目などもあり、身の回りの馬廻や小性を中心にした信長への忠誠が確かな精鋭部隊に頼るところがあった。そして寡兵で多数の敵に勝つこともあった。しかし、全体的に見れば劣る兵数でも、ある一点にこの精鋭を集中して局地的には互角以上の兵力を用いることができたのは、敵将今川義元の首級をあげた桶狭間でみることができる。なお、尾張の地固めやのちの伊勢の北畠家攻略には暗殺や養子縁組、また一族諸殺しなどの手段も利用している。

美濃を攻略したのちは、大きな兵力をもって敵を凌駕し、できるだけ速く勝負を仕掛けるのを一般的な戦術としている。必要とあれば力攻めを用いて、長期の攻城戦はできれば避けているし、伊勢長島や石山本願寺などでは、地勢もあるがかなりてこずっている。地形の他に大きな理由は(第一次)信長包囲網だろうか。一カ所に大軍をもって留まれば、守りの薄いところから攻め込まれるし、主導権を敵に握られてしまう。じりじりと攻められるのではなく、個別撃破で敵の勢いを削いだ行動力はやはり織田信長の強さを物語っている。それでも三好三人衆・本願寺・朝倉・浅井に囲まれたさいの志賀の陣などでは、かなり危うい状況になっていた。そして、戦国時代の「もし」によくあげられる武田信玄の西進があったならば、結果は如何となっていただろうか。

武田信玄死後、そして朝倉と浅井氏の滅亡後には、兵力に余裕が出てきて、部下に方面軍を授けた。これで数方面で同時に領土拡張を期し、また他の兵力を遊撃軍団として使うことにより、効率的に敵を攻略できた。毛利や上杉氏を中心とした第二次信長包囲網にも充分に対応しえたのも頷ける。

やはり枚数の関係で、一合戦一合戦に踏み込めなかったのだろうが、もうちょっとそれぞれについて知りたいと思わせる本だった。さて、織田信長はどのように大勢の兵を集めて、兵站を維持できたのか、説明が欲しいと思うのは欲張りだろう。